記事: #02 | 人と人のあいだで生きる 後編

#02 | 人と人のあいだで生きる 後編
「社会」は見ず知らずの人が集まる大きなもの
だが、数十人の餅つき大会を通して、「社会」を見るのは少し変な感じがする。
僕たちは普段「社会」という言葉を用いるとき、それはかなり大きな人間集団を想定するからだ。例えば、日本で、日本語を使って「社会」と言えば、多くの人は「日本社会」のことを思い描くだろう。1億2千万人がひしめく「社会」は、餅つき大会とどう関係するのだろうか。
実は、ラテン語から流れを汲む「仲間」としてのSocietyの用法は18世紀ごろから変化してくる。つまり、今日、僕たちが使う「社会」の意味に近づく。
なぜなら、ヨーロッパにおいて「王様が支配する国家」から「市民社会」を分離していくような思想が生まれていったからだ。
例えば、ジョン・ロックやルソーが考えた「社会契約」の概念を導入するためには、市民同士が契約を交わす場としての「社会」が必要不可欠になる。フランス革命が起きた後には、貴族や平民といった身分秩序を超えた、国民全体を指す概念としてsocietyが重要になってきたのだ。
そして、オーギュスト・コントが「社会学」を提唱し、国家として切り離して、「自然法則で動く全体体系」としての「社会」を研究対象とするに至った。
そうして、いま、僕たちが何となくかんえているような「見ず知らずの人間の集まり」としての「社会」という概念が成立してきたということだ。
コントが社会学を提唱して以降は、「社会」に関する研究も進んだ。
例えば、エミール・デュルケムは規範による持続的秩序として「社会」を考えた。つまり、「社会には、人の気持ちとは別に、守らなければならないルールがある」という。例を挙げると、法律や道徳。小さいものだと、あいさつのしかたや学校の決まりなんかがある。こういったルールは自分が決めたわけではないが、守らないと注意されたり、罰を受けたりする。このように外から自分をしばる力を「社会的事実」と呼んだ。デュルケームがいいたいのは、「社会」は、ただ人が集まったものではない、ということだ。みんなが同じルールを共有していることで、安心して行動できるからこそ、「社会」と呼べる。
どうして安心できるかというと、ルールがあることで、「この人はたぶんこう行動するだろう」と予想できるからだ。予測できるから協力でき、社会がまとまる(連帯)ことができる。
一方、ゲオルク・ジンメルは、「社会はモノではなく、人と人のやりとりそのものだ」と考えた。「社会」の一番小さな単位は「人」ではなく、人と人の関係なのだという。たとえば、友だちとの会話、先生と生徒の関係、店員と客のやりとり。これらのやりとりが続くことで、「上下関係」「ライバル」「協力」といった形ができあがる。ジンメルは、こういったやりとりには、競争、協力、対立、服従といった一定の「型」があると考えた。「社会」は、こうしたやりとりの型が何度もくり返されることで成り立つ。
つまり、「メンツ」や「立場」も大事である。相手の顔をつぶさない、役割を守る、といったことが関係を続けさせる。日々のやりとりが積み重なってできる関係の流れが「社会」を作り上げる。
ちょっと、風変わりな説明をしてくれるのは、ニクラス・ルーマンだ。彼は「社会を作っているのは人ではなく、コミュニケーションだ」と考えた。「社会」とは、話す・伝える・理解する、というやりとりが続く仕組みなのだという。たとえば、ニュースが報道される → 人が話題にする → さらに議論が広がる、といったようにコミュニケーションが次のコミュニケーションを生む。
これが続くことを「自己再生産」という。
現代社会には、いろいろな分野がある。法律の世界でいえば、「合法か違法か」、経済の世界でいえば「払うか払わないか」、政治の世界で言えば「権力があるかないか」…。それぞれの分野で、それぞれが独自のルールで動いている。「社会」とは、こうしたいくつもの仕組みが同時に動いている全体である、というわけだ。
全体というからには、人間だけではない、という考え方を打ち出した社会学者もいる。ブルーノ・ラトゥールだ。彼は、書類、パソコン、アプリ、建物、道路なども、社会を動かしているという。たとえば、信号機があるから車は止まる。校則が紙に書かれているから守られる。パスワードがあるから入れない。
つまり、モノや仕組みも、人と同じように行動を決めている。「社会」とは、人とモノがつながってできたネットワークなのだ。
さて、4人の社会学者を招き、それぞれの見解を紹介してもらった。
デュルケムは、「社会」は「みんなが守るルール」でできているといい、ジンメルは「社会」は「人と人のやりとり」でできているとした。ルーマンは、「社会」は「コミュニケーションの流れ」でできていると言ったし、ラトゥールは、「社会」は「人やモノのつながり」でできているとした。
「社会」にはいろいろな見方があり、いろいろな側面がある。これらの議論は相互に緊張関係のある理論なので、まとめるのは不適当だ。不適当なのは踏まえた上で、乱暴だが、一旦このようにまとめてみよう。社会とは、なんらかのルールに則って、ヒトやモノや情報が絶え間なく行き来するネットワークのようなものだ。
さて、次に考えたいのは僕たち「個人」と「社会」の関係だ。
言い換えれば、「餅つき」を考えるということが「日本社会」を考えるということがなぜ同じと言えるのか、ということだ。
「社会」に入っていく
「社会」には、「ルール」があり、「関係」があり、「コミュニケーション」があり、「ヒトやモノやなんかで構成されたネットワーク」がある。
次から次に、呼び出して申し訳ないが、ここにもう一人文化人類学者を呼ぼう。マルセル・モースだ。
彼は『贈与論』というとても有名な本を書いた。この本には、北アメリカから西大西洋、古代ローマからゲルマン人まで古今東西の実に多様な人々が登場する。そして、モースはこの多様な人々が、実は「贈与」を通して物品を交換していると主張した。
少し整理しよう。
21世紀の僕たちは、欲しいものがあれば、お店でお金を出して買う。お金とモノを交換する。等価交換をする。そして、お金が登場する以前には、人々は同じぐらいの価値があるモノとモノを物々交換(等価交換)していたと何となく考えている。これは正しいで理解でない。
モースは、市場における売買(等価交換)が一般化する前は、モノをプレゼントし合うことにより、モノとモノを交換していたと見抜いた。
モノとモノを交換していたのなら、物々交換じゃん!と思われかもしれない。でも、現実には違う。むしろ、お中元とかお歳暮に近い。
僕たちは、誰かからビール一箱をお中元にもらったかと言って、全く同じビール一箱をやはりこちらから送る、などと野暮なことは基本的にしない。なんとなく、同じぐらいの金額でありそうな、フルーツゼリーセットやワインのセットを贈り返したりするだろう。
大体釣り合うことに腐心はするが、厳密な等価交換をしたりはしない。
むしろ、相手より少しだけ豪勢なお返しをするように心がけるだろう。相手より安価なプレゼントをして、「やったー!得をしたー!」と喜ぶような人は、「品がない」ということになっている。
モースは、世界中の様々な習慣を調べる中で、人間集団には三つの掟があるのではないかと気がついた。つまり、贈り物を与える義務、受け取る義務、返礼する義務だ。文化によっては、この義務に違反した人が奴隷にされたりするぐらいだ。少なくとも、ほとんどの社会では、この三つの義務が果たせない人間が尊敬されることはない。
さて、前振りが長くなった。
思うに、人間が「社会」に入っていくために必要なのは、この贈与のネットワークに参入することなのだ。
餅つき大会で、餅をつくのは一つの贈与でありうる。みんなのためになることをしたからだ。それは、餅つき大会の参加者全員への贈与だ。そして、参加者たちはそれぞれ、お酒を配ったり、餅を丸めたり、ゴミを集めたり、掃除をしたりした。それぞれがみんなのためになる行為をした。つまり、返礼が行われているわけだ。
人々が、他人のために働き、他人の働きによって生かされる。
そのために、ルールがあり、関係が培われ、コミュニケーションが起き、ヒトとモノを含んだネットワークが形成される。
つまり、社会のなかで入っていくには、みんなのために働くのが良い、ということになる。
「社会」にいるための方法としての「仕事」
さあ、ここで「仕事」の話に入っていこう。
「個人」と「社会」と「仕事」の話だ。最後のピースである「仕事」を考えてみよう。
僕たちは、「資本主義社会」と呼ばれる社会に住んでいるとされる。「資本主義社会」とは、自由市場と私有財産が認められる社会のことだ。自由市場とは、人々が誰とでも何でも交換(売買)できる場だ。メルカリや楽天市場に慣れ切った僕たちからしてみると、「誰とでも何でも交換できる」なんて、あまりにも当たり前で拍子抜けという感じではないだろうか。
でも、実は当たり前ではない。例えば、江戸時代には、藩によっては紙、砂糖、塩、蝋、煙草なんかを勝手に売り買いできなかった。江戸時代にまで遡らなくても、タバコや、塩やお酒は戦時中も勝手に売買できなかった。このように、政府が、売買できる相手やモノを勝手に決めることができるのであれば、それは自由市場ではないと言える。
財産にしてもそうだ。政府や王様が人々の財産を勝手に持っていくことができるのであれば、それは私有財産とは呼べない。個人が財産を持つ権利が厳しく守られている状態であれば、私有財産がある社会と言える。僕たちはよっぽどのことをしなければ、政府に銀行口座を押さえられたりはしない。
つまり、僕たちは自分の財産を持ち、それを市場で自由に売買して生活することができる。これが「資本主義社会」だ。
「資本主義社会」では、売買が交換の基本だ。モースがいうような贈与交換と違い、売買のような交換では、人と人の関係が深まるということがあまりないらしい。お中元を送り合っていれば、だんだんと仲良くなったり、少なくとも個人的な人間関係が続いたりするものだが、コンビニで毎日同じ店員さんからコーヒーを買っても個人的に仲良くなるのは難しい。
しかも、20世紀の後半には、グローバリゼーションとよばれる、経済圏の拡大が起きた。江戸時代の農村であれば、だいたい近在で取れた食品を毎日食べていただろうが、21世紀の僕たちはブラジルで育てられた鶏とスペインで育てられた豚の入ったカレーをタイで育てられた米につけて食べるといった食事ができる。惑星中の経済が接続されている。「顔の見える生産者」の作ったものだけで生活を成り立たせるのは至難の技だ。
どういうことかというと、グローバルに広がった「資本主義社会」においては、見知らぬ誰かとともに生活する必要がどうしたってあるということだ。
僕たちは、馴染んだ地元に住んで、子供時からの友人たちと過ごしながら、同時に見知らぬ他者と関係しながら生きている。
実は、僕たちの社会では、ほとんどすべての人たちが、はじめてフィールドに行く文化人類学者や餅つきに行く僕のように、自分の社会に放り出されている。
そして、この社会に参画する方法こそが、まさに「仕事」をすることになっている。「仕事」は、何も賃金をもらう労働に限ったことではない。「仕事」とは、他人の役に立つ行為だ。たとえ、一銭の儲けにならなくても、小説をインターネットにあげていれば、それは「仕事」だと言えるだろうし、しばしば「労働」ではない、とみなされがち家事や子育ても、「だれかの役に立つ」という意味では立派な、いや、立派すぎるほどの「仕事」なのだ。
こういうふうに「仕事」を見てみると、「資本主義社会」での売買が現実にはそれほど非情で冷酷なシステムではない、ということにも気が付く。僕たちは、売買をするときに、常に人間関係を作らずにいられるわけではない。
僕がバーで常連になったように、行きつけの定食屋に行けば女将さんとの関係が、女将さんとの関係ができれば、他の常連たちとの関係が自ずと作られていってしまう。それは、売買が純粋に売買としてだけで成立することが実は稀で、どうしても贈与的な行為が混ざり込んでしまうからだろう。
「仕事」をとおして、他人の役に立つ時、報酬や給与をいくらはらったところで、実は労働以外の贈与、例えば、ちょっとした気遣いだったり、心配りだったりをどうしても交換してしまう。「人の役に立つ仕事」はどうしたって、贈与的になってしまうのではないだろうか。
僕たちが、日常的にそう感じることは稀だと思うが、実はブラジルの鶏からでも、スペインの豚からでも、タイの米からでも、中国の電化製品からでも、ベトナムの衣類からでも「仕事」を通した贈与を見出すことはできるのだろう。
つまり、まとめるとこういうことだ。僕たちは、常日頃からグローバルな資本主義社会という「見知らぬ村」に放り込まれている。その村の中に入っていくには、誰かの役に立つ必要がある。それが「仕事」になる。「仕事」をするとことで、また別の誰かが僕たちの役に立ってくれる。「仕事」と「仕事」がつながっていくことで、僕たちは助け合う。それに、「一つの餅を作る」のと同じように、ぜんぜん違う作業をする人々と「仕事」を共有する。つまり、一緒に働く(協働)することだってできる。この助け合いがヒトやモノや情報の繋がりの中でネットワークを作り出し、それを僕たちはある程度大雑把に「社会」と呼んでいる。
「社会」のなかで僕はなに贈っているか
さて、僕は、「社会」を「見知らぬ人たちとの仕事を通した協働関係の場」だと考えた「個人」は見知らぬ人々との関係の中に居場所を見つけようと、人々の役に立とうと「仕事」する。この「仕事」つまり贈与を通したネットワークが見知らぬ人々を繋ぎ合わせ「社会」を作り出す。
では、僕は何を贈与しているのだろうか。
僕は、僕の先生たち、そして、それ以前の研究者たちからのその「知」の薫陶を受けてきた。残念ながら僕の能力の問題でその「知」を十全に吸収して、次の「知」に昇華させるという「仕事」はできていないが、僕なりに「知」を活用して、人々がより役立てやすいようにしてみる、という「仕事」をやっているつもりだ。
もし僕の話を聞いてみて、自分の「仕事」と「社会」と「自分自身」との関係について、少しでも思いを馳せていただければ、それは、僕からの贈り物だと思って欲しい。
そして、それは僕を通して、wonder baggageがみなさんに贈りたかったものでもあるのではないかと思う。

室越 龍之介 Murokoshi Ryunosuke
アンソロポロジスト、ライター。専攻は文化人類学。九州大学人間環境学府博士後期課程を単位取得退学後、在外公館やベンチャー企業の勤務を経て独立。個人ゼミ「le Tonneau」を主宰。法人向けのリサーチや経営者やコンサルタント向けに研修や勉強会を提供。Podcast番組「のらじお」「新日本駄洒落協会」を配信中。
イラスト @Naoto Takamatsu

