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#06 | なんとなくコミュニケーション

小出和明(デザイナー)

記事: #06 | なんとなくコミュニケーション

#06 | なんとなくコミュニケーション

#06 | なんとなくコミュニケーション

小出和明(デザイナー)

 親は大変だったろう。

 自分自身の仕事観、社会観を考えるにあたって、幼少期を振り返ってまず思ったことだ。

 わたしは、6〜7年ほどWONDER BAGGAGEのオンラインストアの運営やグラフィック、販促物全般を制作させてもらっている。デザイナとして特別に優れた技術があるわけではない、という自認があり、けれど自分じゃないとできなかったかもしれないという自負もある。この自負の根っこにあるのは、「縁」を作り出した自分自身の選択と行動だと思う。

 まず、わたしが行った選択は(意識的ではなかったが)、学校に行かないというものだった。つまり、親は大変である。30年以上前の不登校は、不登校という名前も一般的でなかった時代である。明確な理由はいまだにわかっていない。なんとなく、簡単なことを足並み揃えてする、みたいなことに耐えられず居心地の悪さを感じていた記憶はある。中途半端に器用なほうではあったのだろう。計算や運動など、同年代や年上が苦労しているところをこなせていた。もちろん、それでも足並みを揃えるというのが一般的なスキルだと気づくべきなのだが、自分は特別なのでは? というような頭の悪い勘違いがあったかもしれない。

 小学校は6年間で1ヶ月も行っていなかった。それでも、放課後になれば友人と遊び、不登校=引きこもりのような構図にもならずにいたが、中学に上がる直前に親の都合で北海道へ転勤。友人関係が断たれることで、引きこもりへバージョンアップした。とはいえ、暗い感じはない。家族ぐるみの付き合いだったため、友人との連絡をとるために、家にパソコンが導入され、Eメールというやつ(ポストペット)が導入されていたのだ。わたしの身体は引きこもっていたが、心はとても拓かれていた。

 引きこもりとパソコンは、とても相性が良い。インターネット元年からわたしは、チャットやオンラインゲームなどで、さまざまな、本当に老若男女関係なくさまざまな人と話していた。とはいえ、現代とはまるで違う、当時のインターネットなので、ある意味で限られた人々であり、「さまざま」ではないのかも知れないが……。

 なかでも、チャットでよく話すようになった、関西在住の「かあず」さんという人からは色々な影響を受けた。彼からあるとき小説を勧められた。映画や漫画などは、姉が読んだりみたりしているもので理解していたが、小説というのは我が家にない文化だっただけに、興味を惹かれた。タイトルも良い。

 「殺戮に至る病」である。

 知っている人は知っているミステリの名作で、同時に13、4歳くらいの子供に勧めるなんてやはり当時のインターネットは、と苦言を呈されそうだが、頭を殴られるような衝撃とはこのことであった。少年・少女漫画や、ゴールデンタイムの映画しか創作物がないと思っていたところに飛び込んできた異物は、心を掴んだ。そこを起点に興味は広がり、さまざまな小説、アングラな映画・漫画など、いわゆるサブカルチャーを摂取する道へ入り込んだ。

 そのなかで沸々と湧き上がるのは「なんとなくできる自分」の存在である。

 小説を書いてみようという選択をしたのは、14歳の頃だった。

 自分は人とは違うのではないか? 勘違いのようなこの感覚だけが煩わしく残って、思春期とうまい(悪い)具合に混ざり合い、クリエイタを目指すのはもう、仕方ないと言える。また他方で、オンラインゲームで知り合った友人と、ウェブサイトを作り日記のようなものを公開していた。遊びの延長線だったが、文章を書くことのハードルを下げていた。習作を自身のサイトで公開をしたり、小説投稿サイトのようなものも出始め、投稿を始めた。

 そして、その投稿サイトで賞を受けたり、自身のサイトで公開していたものが雑誌掲載(CD-ROM収録だが)するなど、比較的クイックに手応えを感じられたのも、結果的に、今思えば「よかった」のだが「悪かった」気もする。高校をいかないことを決めて作家を目指すことを決めるのに、大きな要素にはなっていた。

 一番大きな転機は、18歳の頃。その頃には雑誌の小説の賞へ投稿を始めていたなかで「最終選考」に残った。宮部みゆきさんや、石田衣良さんを輩出した「オール讀物推理小説新人賞」という賞で、最後の7人に残ったのだ。

 喜ぶべきではあるのだが、愕然とした記憶の方が残っている。なぜなら、応募した作品に「自信があったから」である。そのころ、犬を飼い始めた。そして、犬の躾をきちんとしようとするあまり、育児ノイローゼ気味になったわたしは、その体験を落とし込み、作品とした。これまでの「想像」で書いていた内容ではない、実体験が落とし込まれた作品が、最終選考に残った。

 引きこもりの自分に、もし受賞した後、同じようなものを書くことはできるのだろうか? 自問自答したときに、骨が震えるような恐ろしさしかなかった。

 無事に落選したあと、わたしは新たな選択として、進学を決意した。

 親は大変だったに違いない。

 とにかく行動をしなければならない、と駆られて「オンラインゲームで知り合った人間と、東京でルームシェアをする」なんてことを言い出したのだ。スマホもないような、20年以上前の話である。通信制の学校へ通いながらバイトをして、ルームシェア。生活は、カオスであった。とにかく作品を作るためには、行動と、体験が必要だと、焦っていた。

 きっかけがあれば人と会い、語り、飲み、記憶をなくしたり、したことのないことを無理にでも経験しようとしていた。まるで、無頼派の私小説の一部のようだな、と酩酊し、新宿駅で始発を凍えながら待ちながら心地よくも思っていた。ただ、人に会うほどに自分自身の興味や趣味が拡張されていく感覚は、悪くなかった。小説に出会ったときのような衝撃はなかったが、身体で体験するさまざまなことで、「これは心地よい」「これは良くない」と経験になって腑に落ちていく。遊びや、会う人間も徐々に限られていき、写し鏡のように自分自身を相対的に認識できるようだった。

 自分は、こういう人間だったのか、と。

 同時に、他人の行動原理の想像にも役立った。完全な理解はもちろんできないが、会いたい人も、もう会いたくない人も、どちらにも行動原理があり、その背後にはコンテクストがある。そのコンテクストは社会に根ざしていることもあれば、小さなコミュニティの場合もあり、そこに立脚しなければ理解のできないことがあるのだと、身体で理解した。

 そうした小さな気づきの積み重ねで、小説の中の存在しないはずの人間が立体的に浮かび上がるようで楽しくもあった。

 そんなカオスな毎日で、小説を書くことを忘れてはいたが、本は好きで良く読んでいた。週に一度は本屋に通い、気になった本を手に取り、余裕があれば買っていた。

 1年、2年と経ち、通信制の学校の担任と進路について話す中で「本を作る仕事」を知った。そしてどうやらそれは「デザインの仕事」の一部なのだと。当然なのだが、気づかなかった。本はそこに在ったので、誰かがデザインをしているという意識が、不思議となかったのだ。

 デザインの勉強をするほどに「気になった本」の「気になった理由」を理解し、裏側にあるコンテクストのコントロールを学んだ。カルチャー理解による、アウトプットは暗黙の了解のようなコミュニケーションだったのか、と過去に買った本を思い返しながら感動を覚えた。

 自分はずっとコミュニケーションをしていた。引きこもりながらも社会と接続して、人やものや、遊びを通して、コミュニケーションを繰り返していた。

 ただ、デザインの専門学校を出て、就職した会社で待っていた「デザインの仕事」は、まるで突風の中でお手玉をするような厄介なもので、幼少期、自分が他人のペースに合わせるのを疎く思ったことのしっぺ返しのような苛烈なものであった。

 周りを見渡せば、突風の中で玉乗りしながらお手玉をしているのである。医療図書、施設のマニュアル、教科書など、生活の馴染みはあるが、自分の中にインプットされていないカルチャーを器用にこなすことができない自分の不器用さ、デザイナとしての実力不足に打ちひしがれながら、長時間労働を繰り返し、5年ほどで病んでしまった。

 長時間労働の悪いところは病むところで、いいところは、お金が少しあるところである。仕事を辞めながらも、洋服はよく買っていた。これも、上京して覚えた悪い遊びである。なかで、WONDER BAGGAGEと同じデザイナが作る「blueover」という靴が目に留まった。そのときはブランド名も意識していなかったし、生産背景も知らなかった。ただ、自分の好みのデザインの靴だな、くらいである。

 それを買って履いてSNSにアップすると、当時の旗艦店の店長に見つかり、SNSでのやりとりが始まった。失業保険を受けながら、一体自分はどうすればいいのか途方にくれながら居た中で「デザインと写真と、文章が書ける人」を、その店長がSNSで募集しているのを見つけ、手を挙げた。それはなんか、選択でもない、自然な行動だった。

 給与も、就労時間も聞かず、大阪へ引っ越しはたらき始めると、新たな風が吹くのを感じた。それは変わらず社会の突風だ。優しく頬を撫でる風ではない。けれど、その風を今度は傘で受けて飛び上がるように楽しむことができた。また、直接、blueoverとWONDER BAGGAGEのデザイナと話す機会も増え、そのプロダクトのデザインコンセプトを知っていくほどに、自分の辿ってきた好みをなぞり、広がっていく感覚があった。

 自分が取捨していき、残っていった自分自身の趣味嗜好というカルチャーがたどり着いた場所。これは、間違いなくコミュニケーションであった。

 わたしのこの、親に迷惑をかけながら辿ってきた生き方は、自分がコントロールしているようでいて、社会との接続に終始していたと考えている。社会が自分を作り、自分もまた入れ子構造のように、社会を作っている。だからこそ、WONDER BAGGAGEやblueoverのような、コミュニケーションが必要なプロダクトを、伝えられるとも思えている。

 わたしは決して特別ではないが、私にしかできないコミュニケーションがあり、それはどこかで社会と接続し、誰かと接続する。それが仕事になっている。その実感を、大阪にきて得ることで、突風のなかで息を吸うことができた。

 小説家という夢は叶わなかったが、そこを目指さなければ見られない自分があり、世界があった。それは、小説家を目指さなければ見えなかったかも知れない。

 わたしがコントロールできることは唯一、そのコミュニケーションを裏切らないということだけだと思う。それは社会を、そして接続している誰かを裏切らないことだ。だからこそ、強くこれからも社会に接続していこうと思っている。親と、自分の子のために。

 

 いとなミズムはバッグブランド”wonder baggage”が、ブランドコンセプトを体現するためのメディアコンテンツ。メインユーザーであるビジネスパーソンに向け、様々な業種からの「仕事」を通じた「社会」のありようを知ってもらい、読み手は書き手との差異を認知し、いまの自分をより俯瞰しメタ的認知を狙う。

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